思考の記憶、記憶の思考
前回は中途までしか読んでいなかった、熊野純彦『レヴィナス入門』を読了した。しかし、『存在するとは別のしかたで』についての章に入ってからは、議論の勘所をつかむことすらおぼつかなくなってしまった。合田正人『レヴィナス──存在の革命へ向けて』を買ったし、最近岩波現代文庫に入った、熊野によるモノグラフ『レヴィナス──移ろいゆくものへの視線』を再読して、原典に再び挑むことにしたい。
竹村和子『フェミニズム』は前回読了していたが、同じシリーズの岡真理『記憶/物語』を半分ほど読んだ。竹村よりもさらに晦渋な文章である。本当に校正が入ったのかと疑いたくなるような文すらある。内容はよいだけにたいへん残念である。
ともあれ、本書はわたしの記憶の一部をまちがいなく構成している。わたしがはじめて買って読んだフランス語の小説はバルザック『アデュー』だった*1のだが、きっかけは岡が紹介していたフェルマンの『アデュー』解釈である*2。まさにこの箇所を読んで、わたしは池袋で Livre de poche の Adieu を買った*3。
以前この話をしたところ、ある友人はレヴィナスに対するデリダの弔辞を連想したらしかった。語にさまざまな質をまとわせて、わたしたちは想起する。
西田幾多郎には継続して興味を持っており、藤田正勝『西田幾多郎──生きることと哲学』を再読している。西田が「象徴の真意義」なる論文のなかで、ベルクソン『意識に直接与えられるものについての試論』から引用しているという。「わたしがばらの匂いをかぐ、するとたちまち、幼い時分のぼんやりしたおもいでがわたしの記憶へとふたたびもどってくる。実のところ、このおもいでがばらの香りによって喚起された、というわけではない。わたしは匂いそのもののなかにおもいでをかいだのである。匂いがわたしにとってはすべてなのである」*4という、やや奇妙な表現を用いてベルクソンが述べたかったことは、岡の考察の目指す所とも重なっていくと思われる。
「古典の豊かさに浸ることを学生たちに求めたケーベルに対して」西田は「自ら思索する」ことをモットーとした、と藤田は書いている*5。決して誤った評価ではないだろう。けれども、「純粋経験」という語からすぐに連想されるウィリアム・ジェームズのみならず、新カント派についても、当時の最先端の哲学であるベルクソンについても、あるいはメーヌ・ド・ビランについても、しっかりと読み理解していることがうかがえる。「自ら思索する」とは、いったいどういうことなのだろうか。西田自身の言葉を引いておく。
私は常に思う。我々の心の奥底から出た我国の思想界が構成せられるには、徒らに他国の新たなる発展の跡を追うことなく、我々は先ずそれ等の思想の源泉となる大なる思想家の思想に沈潜して見なければならぬ。そしてその中から生きて出なければならぬ。*6
藤田が強調しているように、西田はあくまで「生きて出る」ことを目標としている。しかし、まず沈潜しなければならない。沈潜して窒息するような思想は、たいしたことがなかったということだろう。
*1:ちなみに、はじめて読了した小説はユゴー『レ・ミゼラブル』だった。
*2:岡真理『記憶/物語』岩波書店, 2000, pp. 15-23. フェルマンの解釈は Felmen, S., What does a woman want?: reading and sexual difference の第2章で読むことができる(質は知らないが日本語訳がある)。
*3:表紙が変わってしまったようなのでハイパーリンクは設定しない。
*4:藤田正勝『西田幾多郎──生きることと哲学』岩波新書, 2007, p. 73. なお、引用箇所を『時間と自由』としか藤田は明示していないが、おそらくは Bergson, H., Essai sur les données immédiates de la conscience, PUF, 2007, pp. 121-122 だと思われる(拙訳)。
*5:同, p. 43.