とおかで何読んだ?

ふつうの読者を目指す weblog

体験と言葉とのはざまで

 前回挙げた本のうちで読了したものは一冊もない。自主ゼミでは雪江明彦『代数学1──群論入門』をほぼ読み終えるなどの成果はあったが、なかなかまとまった読書時間が確保できなかった。『カント──美と倫理とのはざまで』のあとがきで「すくなからぬ日々の用務のあいまを縫って、文学部長室で書きつがれた」と熊野純彦は記していたが、わたしは読むだけでも息ぎれしてしまっている。

 熊野『レヴィナス入門』は半分ほど読んだところである。レヴィナスの主著である『全体性と無限』を論じた部分はごくわずかしか読んでいないので、本書全体についての評価は留保しておきたいのだが、少し気になったことがらについて記しておきたい。
 レヴィナスの著作のひとつ『存在することから存在するものへ』における重要な概念である「イリヤ」について考える箇所に、印象的な表現がならぶ。

なにもないことがなおあるということ、なにかがあるのではなく、ただある(イリヤ)という事態を考えることができないだろうか。無ではなく、無があるけはいのような存在のしかたを想像すること、覆された世界の酷薄さをことばにすることは不可能だろうか*1

 「無」があるのではなく、予期されたものが別のものに置き換えられたにすぎない、と断じるベルクソンとひきあわせつつ、レヴィナスの「イリヤ」の内実を探ろうとする箇所である。しかし、「ただある」とはいかなることだろうか。あるいは、どのような事態を念頭に置いているのだろうか。

闇に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてようとしても、なにも見えずなにも聞こえない。にもかかわらず、「あたかも空虚が充たされ、沈黙がざわめきだっているかのように」感じられる。闇がある。それはしかし「存在者」でも「無」でもない(ネモとの対話)*2

 このような、何もないところに「ざわめき」を感じるような「ある」を、熊野は──おそらくは特殊な解釈ではないはずだが──レヴィナスナチス強制収容所で近しいひとを殆ど亡くしたことに求める。けれども、実感が伴わないせいなのか、わたしにはうまく理解できない。都会の喧騒のなかでかえって孤独を覚えるように、あまりに多くのものが失われたときには、たしかに「ざわめき」を感じるのかもしれない。もし、レヴィナスが述べる「ざわめき」がここに重なるなら、「ざわめき」があることじたいをわたしが了解することはできる。だが、何か見えるはずのもの、聞こえるはずの音を捉えようと感覚が走査しているものの、何も捉えることができず、予期ばかりが先走っているだけだと断じることができないのはどうしてだろうか。そのような感覚を理解することはできるが、あくまで想像的なものにすぎないと言ってはいけないのだろうか。
 原理的には経験可能ではあるが、なお特殊な体験を言葉で表現するという困難な試みは、文学の対象であると同時に、はっきりと哲学の仕事でもある。たとえば、親しかったひとびとがみな逝ってしまい、ひとり取り残されるというような体験は、ひとの経験の境界をあるしかたで描くと思われるし、さらには、言葉にしがたいことがらをなんとか表現するための言葉を紡ごうと苦闘するという営為こそ、すぐれて哲学的だからである。とはいえ、依拠している体験の衝撃は必ずしも共有されない以上、議論のたどる道も、行きつく先も、普遍性を帯びるとは限らない。限界状況のひとつのサンプルとして、いったんは処理されるしかないだろう。そのうえでどうふるまうべきなのか、わたしには見当もつかない。


 では、さしあたりは自身と異なる者の体験であり、ゆえに安易な理解を拒むようなことがらについては、ひとはどう接するべきなのだろうか。「男」たちは「女」という差異を、まさにそのようなものとして捉えてきたのではないか──などと考えながら、竹村和子フェミニズム』を読了した。
 読者をかなり選ぶと思う。竹村の文章は生硬で、読みやすいものとは到底言われない。特に終章ではその傾向が顕著である。いかにもカルチュアル・スタディーズらしい文章のなかに、なんとか名前を知っているという程度の思想家が次々と出てくる。イリガライ、クリステヴァスピヴァク、バトラーといった、少し前に定番だったひとびとである。このなかでそれなりに読んだことがあるのは、バトラー『ジェンダー・トラブル』くらいであった。スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』を読んだ気もするが、どちらにしても内容は知らぬも同然と言ってよい。足早に要約されては過ぎ去ってゆくばかりであった。イリガライなどを読まねばならないのだろうか……と暗い気持ちになるが、とりあえずは、長らく読もうと思っていた Gallop, J.,
Feminism and Psychoanalysis: The Daughter's Seduction を読んでみようと思う。
 しかし、フェミニズムのたどってきた歴史についての竹村の記述は明快である。あるいは、典型的にはミソジニストたちが「女」と名指すような集団のなかでも、絶えず境界線が引かれ続けてきた*3という指摘は、当然のことがらではあるものの、だからこそ重要である。ことがらが重要なだけでなく、当然のことがらをあらためて指摘することじたいに、なお意味があると思われるからである。
 ここでわたしの意見を殊更に書きつけようとは思わない。かわりに、竹村の文章を引用しておこう。

したがってわたしが念頭に置いているフェミニズムは、女に対して行使されてきた抑圧の暴力から女を解放することを意図しながら、同時に、そのような「女の解放」という姿勢自体を問題化していくこと、つまり「女」という根拠を無効にしていくこと[…]である。言わば、フェミニズムという言葉を手放さずにおくことによって、フェミニズムという批評枠を必要としなくなる時を夢想することである*4

 さしあたりは、ジェンダースペクトラムにすぎないと認識されてほしい。そして、ジェンダーという境界線が充分に攪乱され、顔にあるほくろの数くらいにしか気にされなくなり、無化されてほしい。心からそう思う*5

今回の本:

*1:熊野純彦レヴィナス入門』ちくま新書, 1999, pp. 57-58.

*2:同, p. 59.

*3:このあたりについては、杉田敦境界線の政治学 増補版』を想起しながら考えていたのだが、具体的な箇所を示すことはできない。再読することがあれば指摘したい。

*4:竹村和子フェミニズム岩波書店, 2000, p. vii.

*5:そのためには、わたしのミサンドリーを融かす必要もあるはずなのだが、なかなか難しい。

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