新たなコードとの邂逅
連休はあったものの、主に精神的なつかれがたまっていたらしく、近所で服を買うなど卑近な用事を済ませるのがせいぜいだった。本来ならば街に出て映画を観るなりゆっくり本を買うなりしたかったのだが、なかなかうまくいかなかった。とはいえ、一冊の本をほぼ一気に読了するという体験をひさしぶりにすることができた。千葉雅也『勉強の哲学──来たるべきバカのために』である。
変な本だった。
題名を素直に解釈すれば、勉強とはいかなるものか哲学的に考える本だということになるだろう。本書はそういう一面を持っている。
千葉は本書の冒頭で「勉強とは、自己破壊である」(p. 18)という強烈なテーゼを提出してみせる。こういう主張に慣れていない読者は驚いたのではないだろうか。わたしが現所属で観察した限りでは「これまでと同じままの自分に新しい知識やスキルが付け加わる」(同)営為として勉強を捉えているひとが大多数だと思われる。たしかにこちらのほうが素朴な所感だろう。けれども、危険でもあると思う。
なぜか。千葉が凝った道具立てを用意して述べているのは、結局ごく単純な話である。ひとが体系的な知識を獲得するとき、同時に思考の様式を避けがたく身につけている。──ある程度の知識を得ると思考の様式が変わってしまうとすれば、知識の獲得はみずからの変化を意味することになる。かつての自身と同じままではありえない。特に専門的な知識を要求される分野の訓練を受ければ、思考様式の変化は大きいことだろう。専門家になるために変化は必要である。素人は専門的なことがらをよく知らないうえ、どう扱うべきかも知らないからである。けれども、学ぶことによって自身が変化していることを忘れてしまったら、思考様式の奴隷でしかない。
いま述べたことは、厳密に言えば千葉の論旨から外れている。避けがたく勉強させられるひとびとが自身の変化に自覚的でないという、悲観的な話だったからである。勿論、千葉の意図は違うだろう。自覚的に「変身」することによって、どの思考様式とも距離をとれるようにしておく。別様である可能性を保持しつづけることこそ、わたしたちが最も自由になるための戦略だと千葉は言いたいのだろう。そのためには、広く勉強をするのがよい。
本書は、以上のような内容を一般向けに提示しただけでも意義があると考える。とはいえ、本当にいま述べたようなことがらに気づくべきひとびとが、この本を手に取るのかどうか。
さて、先程『勉強の哲学』は変な本だと書いた。一面では、勉強というテーマについて哲学を援用しつつ考えてみる本だとも書いた。しかし、本書の企みはそれだけではないと思われる。
本書を読み始める前から予期していたことだった。少し読み進めてすぐに判った。ドゥルーズ・ガタリだった。思想的背景については本書の「補論」で千葉が述べているが、やはり根底にあるのは L'Anti-Œdipe および Mille Plateaux である。千葉が書いているとおり、勉強というテーマについて考えることをとおして哲学に少しふれてみる本でもあった。
わたしはドゥルーズに対して複雑な感情を持っているが、ここではあえて繰り返さない。さらに言うと、初めてふれる哲学書がフレンチ・セオリーだというのは、あまり幸せではないとわたしは思う。示される概念もどこか浮ついているように見える*1。しかしながら、(皮肉なしに)おもしろい試みだと思うし、何よりも、読者を新しい「コード」との出会いの現場へとひきずりこんでいるではないか。つくづく変な本である。
最近はイタリア現代思想に継続的な興味を持っているので、岡田温司『イタリア現代思想への招待』を再読した。紹介したい思想家が多いせいなのか、記述が極めて圧縮されており、哲学者ごとの特徴がわたしにはあまりうまく把握できなかった。エスポジトがやはり鍵になっていそうだと確認できただけでもよかったのかもしれない。
イタリアン・セオリーにも変な本がほしいものである。新たなコードと出会うのは、本来楽しいことなのだから。
滝川一廣『子どものための精神医学』は読みやすいが、ありがちな教科書ではなく、極めておもしろい。しかしまだ読了していない。他に泉鏡花を少し読んだ。魅力的な本については、新旧を問わず、いずれまた語る機会があるだろう。
今回の本:
- 千葉雅也『勉強の哲学──来たるべきバカのために』
- 岡田温司『イタリア現代思想への招待』
- 滝川一廣『子どものための精神医学』
- 泉鏡花「外科室」『泉鏡花集』
- 同「眉かくしの霊」『泉鏡花集』