書くために読む話
ひと月以上更新が停止してしまった。入稿期限が差し迫っていたからだが、読みたいと思って読んだ本は殆どない。ただ、小説が書けなくなったときに、谷崎潤一郎『細雪』と中井英夫『とらんぷ譚』、それから津島佑子『光の領分』をひたすら読んでいた。この三冊は、わたしにとって目指すべき文体を内包している。不調になったときに、たとえばフランス語の詩を訳すという作業は、対象に潜り込んで訳す(中井久夫の言葉を借りれば「雲のようなもの」ができてくる)ゆえに、かえってみずからの文体を思い出させてくれる。ところが、翻訳によって得られる効果は、日本語で小説を読むことによるものとは、また違うと思われる。
詩や小説の翻訳による矯正は、あくまでイメージと言葉の対応関係の凝りをほぐしてくれるというのが近い。
文学作品は、言語によって感覚を表現しなければならない*1わけだが、感覚内容(イメージ)とそれを表現する言語との対応関係が、殊にわたしの場合、書きつづけていると硬直化してくる。また同じ表現を使った。また同じ文末になった。また同じ語が出てきた。そのとき、わたしの対応関係をいったん捨て去って、他の作者の体系に潜り込んでみる。イメージの表現であるはずの言語からイメージをまずは探り出し、おそらくは表現されるはずだったものを、今度は日本語でどう言うべきか考える。凝りがほぐれる理由はこのプロセスにあるはずだが、大きく分けて3通りだと思われる。
第一に、並んでいる言語表現がわたしの書きえないようなものであれば、そもそもそのような語の連続がありえたのだ、という驚きがうまれる。驚きが哲学の始まりかどうかは知らないが、ある種の脱皮をうながすのはまちがいないだろう。別のありよう、別の可能性を見せられるだけでも、世界の見えかたは変わってしまうだろう。いままで見ていた世界の「外」を提示されたとき、異様であると感じると同時に、やはりそれもまた世界のなかにあるのだという、二重のゆさぶりがかけられるからである。ところが、語の並びとしての新奇さにはある程度限界があって、ともすれば言語としての体をなさなくなってしまう*2。
第二に、言語表現の表現内容、つまりイメージが新奇であるという場合がある。しかし、イメージが新奇であるとはどういうことだろうか。言語による表現から、いままで見たことのなかったような情景をすぐに想像させるのは難しい。それは、描写を積みかさねた先にしかないものであって、即時的なイメージ喚起能力ならば、言語よりも感覚に訴えるほうが期待できるだろう。やはり、知っているものどうしの組みあわせでありながら、その組みあわせが新奇だというのが妥当だろうか。このときも、異様さと世界に属することとが同居していることに驚くことになるが、それ以上に、このようなイメージの連なりを読みだしてしまってよいのだろうか、という不安もまた生じる。わたしの考えでは、この不安にこそ独特の矯正能力がある。あるコードを想定して、言語表現をイメージにデコードする。異様なものが出てくる。すると、翻訳者が持っているコードに疑いの目が向けられるはずである。コードが正しいとか正しくないとかを論じたいのではない。翻訳者になり、コードを自覚的に確認することによって、制作者としてのコードをも疑似的に点検できているのではないか、と感じる。
第三に、イメージがおおよそ妥当に把握できたとして、それに対応する日本語を見つけなければならない。このとき、対応するものがどうにも見つからないことや、対応しているとは思うが、無視できない差異が気になってしかたがない、というふた通りの問題が起きうる。どちらの場合も、やはりコードを問題にせざるをえない。
では、翻訳によってではなく、日本語の文学作品を読んでしか得られない効果とはなんだろうか。それは、「こういう言語表現をしたかった」というサンプルを採取するという一点につきると思われる。サンプルはそのまま用いられるはずもないが、文末の処理のしかたとか、文のリズムであるとか、読点の打ちかたとか、さまざまな悩みを解決するヒントとして、サンプルは摂取されていくだろう。こんなにうまい表現があるのか、ということも多いが、同じようなことをして「ださい」と思いはしたが、全体からしてみればそうでもないな、と開きなおる材料になることも少なくない。
──などとえらそうに書いてきたが、そもそも書ける分量が違うことを見せつけられ、かなしくなってしまうことが多いのも、また確かなことであった。
次回からは一応平常運転にもどる予定です。どうぞのんびりとおつきあいくださいませ。