とおかで何読んだ?

ふつうの読者を目指す weblog

読書と文体

 またずいぶんと本を売って処分してきた。数冊新しく買ったが、本は減りつづけている。ビブリオフィリアの気はあったが、何度も読み返すものや資料として使うものを持ってさえいればよいのではないか、といまでは思うようになった。再読したくなる本にはなかなか出会うことができない。

 種村季弘(編)『泉鏡花集成1』を読んだ。かつて述べたように、鏡花の怪談小説を好んで読んでいた時期があって、いまでも評価は変わらない。ところが、この作品集の冒頭の二作品を読んで、『集成』を読みつづける気力がなくなってしまった。かつて古本屋で入手した『泉鏡花集』でわたしには充分なのであって、鏡花のすべての小説を味読するほど熱心な読者ではないのかもしれない。「活人形」は若書きの探偵小説である。探偵の生死が問題のひとつになるわけだが、当該箇所の描写トリックが稚拙で、うんざりしてしまった。「金時計」は佳作というべき小品ではあるが、何度も読もうとは思わない。小説での描写の定石が、日本においてはあまり整備されていなかったからだと言ってよいのだろうか。鏡花の能力の問題ではなく、時代制約のほうを大きく見積もるべきなのだろう。
 『集成』についてひとつだけ批判しておくと、こういった全集系統のものでは、歴史的かなづかいを採用してほしい。原テキストをいつでも読めるような状態に保存しておくというのも偉大な仕事なのだから。せめて、雅文体の作品ではかなづかいをあらためないでほしかった。鏡花の文章の匂いは、かなづかいを変えてしまえば損なわれると考えている。漢字でもひらがなでも表記上は問題ない語句を使用するとき、どちらを採るべきか悩むことがしばしばある。かなづかいも同様で、文章のやわらかさや親しみやすさを変えるのみならず、描写の印象にまで影響を与える。

 前回も言及した、滝川一廣子どものための精神医学』を読んだ。「子どものための」と表題にあるが、こどもを対象とした精神科学の概説をしているという意味では正しい。けれども、滝川の親しみやすい語りに導かれていくと、こどもに限らない、人間の精神作用についても大きな示唆を受けた。正確さを失うことなく、しかも多くのひとにとって読みやすい文体を確保するというのは極めて困難な仕事ではあるが、滝川はしっかりと実現している。その丁寧さの結果、分厚くなってしまっているのだろうが。さらに、滝川のやさしく細やかな精神は、いかにもひかえめに小さい文字で書かれたコメントに表れている。やわらかいが理知的な文章は、読みなおすたびに味わいの増す予感がする。名著である。
 ちなみに、滝川のいた時代の名古屋市立大学は、木村敏教授・中井久夫助教授であった。

 他には──名前を言ってはいけない現所属関連の本を除くと──あまり読めなかった。朝読書の対象とした『ニコマコス倫理学』や、最近購入した小田島雄志(訳)『ハムレット』、熊野純彦レヴィナス入門』については、次回報告することにしたい。読むのにエネルギーを多く消費する本ばかり目につくのは悪いことではないが、つくづく不器用な読み手だと思う。

今回の本: