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とおかで何読んだ?

ふつうの読者を目指す weblog

あこがれること

 新しく出た本を積極的に買うという態度をひさしく採っていない。わたしは読むのがあまり速くないし、同じ本を何度も読むという習慣のせいでもある。とはいえ、何かを諳んじるほど読みかえしたことは、所属が変わってからあったかどうか。
 書店で興味をひかれ、偶然手にとったものが新刊だということもあるが、たいていは出版されて数年経ってから気づく。ここ十日で読んだ本のひとつである清水徹ヴァレリー──知性と感性の相克』も存在すら知らなかった。
 「知性のひと」と称された文筆家は、実際は知性よりも「感性」に動されてきたと清水は言う。ひとつ断っておかなければならないが、「感性」は「知性」の対立語だから採用されただけであって、内実は「恋愛」とか「情動」とかが近いと思われる。要は、大恋愛が成就するにせよしないにせよ、なんらかのしかたで執筆のエネルギーに変えていたということでしかない。そうだとすれば、ヴァレリーの女性遍歴を追うことによって、ヴァレリーの文筆活動も概観できるのではないか、というのが清水の企みだったのだろう。
 端的に言ってしまえば、ヴァレリーの生活史ばかりが記されていて、作品のおもしろさは論じられていない。清水に論じる気がなかったのか、あるいは論じようとして失敗したのかはわからない。ヴァレリーの批評、詩、あるいは『カイエ』や手紙といった私的文書の魅力を紹介するのでなければ、恋多き男のゴシップ記事を読んでいるのと変わらないのではないだろうか。清水ほどの碩学であればもっと描けることが他にあるだろう、というのが率直な感想である。他ならぬヴァレリーが伝記批評を痛烈に批判したというのに。清水は「序」でこのことを指摘したうえで、ヴァレリーという人物のありようを明らかにするためにあえて行うと断っている(p. 11)。しかし、そもそもヴァレリーの書きものの魅力を語らなければ、現代の読者はヴァレリーという人間に興味を持つことはないのではないか。「ヴァレリー」という名への憧憬は、たとえば中井久夫がしばしば述懐するようなしかたでは、もはや残ってはいない。
 ひとに薦める機会があったので、同じく岩波新書熊野純彦西洋哲学史──古代から中世へ』を再読した。こちらは何度読んだか定かではない。近世以降を主に扱った姉妹編もあるが、『古代から中世へ』のほうがずっとよいできだと思うし、わたしは『近代から現代へ』を5回くらいしか通読していない。
 理由のひとつに、『近代から現代へ』一冊で扱われる事項があまりに多く、消化不良のままになってしまうことが挙げられる。デカルトからレヴィナスまで300ページ弱で語ろうというのは、いくらなんでも無理な相談だろう。それと比較すれば、『古代から中世へ』ではまだ語りに余裕があるように見える。たとえば、プラトンの章では『パルメニデス』や『法律』までふれている。『パイドン』や『国家』あたりの要約に終始しないのはさすがである。
 そして、熊野が積極的に引用を行っていることもあって、原典(原語とは限らないが)へと自然に誘っているのもよい。道具立てが大仰ではない時代の良さで、思想関係の知識や慣れがあまりなくとも、ある程度は議論を把握できる。哲学に興味を持って幸福になれるかどうかは知らないが、哲学に興味を持った者が原典を読みたくなるのは悪いことではない。
 最後に、熊野の文体につきまとうやや詩的な匂いは、古代や中世を語るときにこそふさわしく思われる。独特な語りに好みは分かれるだろう*1。鈴木泉はかつて熊野の文体を「みずみずしい桃──というよりは、もはや熟れて崩れそうになっているかもしれない」と評していた。遠い時代の、ともすると乾ききってしまったように見なされてしまう思想を紹介するには、詩的な憧れを惹起する文体の持主が適役だったということなのかもしれない。
 他には、ボードレール悪の華』と西田幾多郎善の研究』を少しずつ再読している。詩集をさらさらと読んでしまえるほどフランス語ができるわけでもないし、西田はかなり努力して整理しなおさないとうまく理解できないのが常である。どちらも読むのに骨が折れる。この二冊については他日に譲りたい。

今回の本:

*1:熊野文体はきらいになれないのだが、「他方」を「たほう」とひらがなにするのはやめてほしい。わたし自身もよくわからない箇所をひらがなにひらくとよく言われるのだが。

*2:わたしは持っていないが、岩波文庫からは藤田正勝の解説が付された新版が出ている。